信楽焼窯元の大谷陶器      世にも珍しい陶器製兵器

陶器製兵器・・・地雷と手榴弾陶器製兵器(地雷と手榴弾)

 昭和十九年、第二次世界大戦も、日本の敗色濃厚となった頃のこと。鉄材が欠乏して、兵器や軍需物資用に、凡ゆる鉄材を供出しなければならなくなったときにわが信楽焼の製陶機械も取り上げられる運命が近づいていた。そのとき、やきもので戦争に尽くすことができたら、と考え続けていた業界の人達。

 当時、工組の理事長であった加藤貞蔵氏(故人)は陸軍中尉(島田中尉)を通じ、東京兵器研究所に掛け合い、千葉第八研究所が、米軍が日本本土上陸を敢行すると予測して、地雷の開発を進めているのを知り、陶器製の地雷なら金属探知機にかからないのと耐水性もあり効率が良い。鉄材も不要で好都合であると進言した。

 ポン、という低い音ともに白墨を散り巻いたような爆風をわずかに飛散させてテスト地雷は爆発した。なんだこんなものか。これでは役にもたたんやろ、と思い込んでガッカリしていると、「試験結果は成功や。希望通りであった。
早速帰って製造に着手してくれ」と言う回答を受けた。鋼鉄製の容器はその容器を爆破するのに力が要る。だから爆風の力もセーブされる。陶製は鉄に比べて破片の殺傷力が弱いが爆薬による爆風、風圧が有効なら充分効果があるということでした。
手榴弾陶器製兵器(手榴弾)

 喜び勇んで帰ってくると加藤氏は「陶製武器振興会」を結成し、地雷、手榴弾の製造に業界上げて着手した。十数工場が着手し、また神山にあった信楽産業では演習用の模擬弾を作った。これが世にも類のない信楽焼の陶製兵器づくりの始まりであった。

 多量につくられた陶製兵器も、その後間もない終戦によって米軍の上陸も無く結局実戦に使われないままに終わってしまった。一ヵ月後、米軍が兵器の生産調整のため、武装兵五人がジープに乗ってやって来た。

 米兵殺傷を目的として造ったことを自白すればどんなことになるか。恐ろしい尋問を受けながら、加藤氏は逃げ口上を考えたのである。「これが何であるか、何のために造れと言われたのか、軍の秘密やから何も知らん。兵器やと言われても、我々は火薬がどんな物かも知らんし、どのように使うのかも知らん。

 これ造れと言われたから造っただけや。噂に聞くと、湯たんぽらしいと言う話や。」と見事にトボケテ誤魔化したのである。さすがの米兵もこれに苦笑いしたそうである。それから1週間の内に、一つ残らず割ってしまえと命令を受け、土中深く埋め込まれた陶製兵器は、以来あるいは将来も、世にも珍奇な兵器として語り草のみが残るだけである。
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