信楽焼窯元の大谷陶器  大正時代の女ロクロ師「おさださん」

大正時代の女ロクロ師ろくろ師のおさださん

 茶道、華道、書道、絵画などで女性の師匠や作家が沢山おられ、男顔負けの有名な人達がそれぞれの道で活躍されている。

 陶芸に於いてもその通りで、女流陶芸家も珍しいことではなくなってきた。信楽では神山清子さんが有名であり、相楽叶さんも居る。昭和末期には、もう無数の女性ロクロ師が誕生し、信楽でそして、全国的にも女性がロクロを廻してやきものを造る事が当たり前のようになってきた。

 大正時代に女性のロクロ師が居た。その人の名は「黄瀬さだ」さん。「中島まさ」さんもいた。「おさだ」さんや「おまさ」さんのほかに、まだ沢山ロクロがひける女性が居たという。

 「おさだ」さんの母親「おそで」さんもろくろがひけたという。「おさだ」さんは、主に「かわらけ」や「ひしお」(べにちょこ)を造っていたが、汽車土瓶も造る事が出来た。

 当時は、今のような電動ロクロもなく、全て廻し棒でロクロを廻し造る「手回しロクロ」であったので、そうとう体力を要し男ほど強く回すことが出来ないため、精々五百個ぐらい1日で造ったようであるが、それでも毎日毎日、沢山の数をこなしたものだといえる。
 「おさだ」さんは、黄瀬の雲林院寅吉宅にも居たが勅旨の故宇田新治宅へも造り職人として夫、半七さんと共働きに来ていた。大正時代、自転車に乗って通ったというハイカラな人であった。夫、半七さんもロクロの腕は達者であったが耳が遠かったので、その補佐役を務めるのも「おさだ」さんの仕事であった。

 当時はみんな着物姿であったので、女性は下着をつけず腰巻だけである。だからロクロに向かって座る時に、男のようにあぐらをかくと、あそこが丸見えになる。だから、「おさだ」さんは、正座をするか、左横に足をそろえて横座りの格好で造っていた。いかにも女性らしい作陶の姿が見られたのである。

 しかしロクロ場は冷える。またお腹にも負担がかかることからか、「おさだ」さんはよく腹痛を起こした。冷えることに弱い女性の哀しさなのであろうか。

 電気と機械の発達によって、ロクロ職人は「おさだ」さんらを最後にして、女性の出る幕ではなくなっていった。女性の作であることも特別に価値つけられずに、「おさだ」さんの造った「かわらけ」や「ひしお」が、各地へ売られていったのである。その品物が、今どこかに有ったなら、手にしてその女意気をかみしめてみたい気がする。
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